第23回 日本語の中の中国語その10――食指が動く|現代に生きる中国古典

 「食指が動く」という言葉があります。「食指を動かす」ともいい、『広辞苑』第六版によると「食欲が起こる。転じて、物事を求める心が起こる」という意味です。
 「食指が動く」は『春秋左氏伝』に伝わる出来事に由来します。舞台は、いまを遡ること2600年以上前の魯の宣公四年(紀元前605年)、鄭の国です。

  楚人献鼋于郑灵公。公子宋与子家将见。子公之食指动,以示子家,曰:“他日我如此,必尝异味。”及入,宰夫将解鼋,相视而笑。
  楚の国の人が、鄭の霊公にスッポンを献上した。公子の子公と子家が参内に向かおうとすると、子公の人差し指がピクピクと動いた。子公はそれを子家に見せて言った「以前このようなことがあった時は、きまってご馳走にありつけた」。二人が入って行くと、料理官がスッポンをさばいていたので、二人で目を合わせて笑った。

 この故事を踏まえて、「食指が動く」は「物事を求める心が起こる」という意味として使われるようになりました。ところで、この話には続きがあります。
 目を合わせて笑った二人を見て、霊公はその理由をたずねました。そこで、子家が先ほどのことを話します。すると、霊公はスッポンのスープを家臣に振る舞いながら、なんと子公には与えなかったのです。子公は怒り、指をスープが入った鼎の中に突っ込むと指を嘗めて退席しました。霊公は怒って子公を殺そうとします。そこで、子公は先手を打とうと子家に相談を持ちかけます。しかし、子家は「家畜ですら年を取っていると殺すことは憚られる。ましてや国の主ともなればなおさらだ」と断ります。すると逆に、子公は霊公に子家のことを中傷し、これを恐れた子家は子公の計画に従い、子公たちは霊公を殺害します。
 スッポンのスープが原因で殺し合いにまで発展するとは、まさに「食い物の恨みは恐ろしい」です。
 ところで、現代中国語では「食指が動く」という言葉は、ほとんど使われていないようです。『漢語大詞典』のような大型辞書を引くと「食指动」、「食指大动」の項目が立っていますが、例文は、『春秋左氏伝』のこの場面と宋代の詩が引かれているだけです。筆者の目の及ぶ範囲ですが、ハンディな中型辞書には「食指动」、「食指大动」は取られていません。現代中国語で「食指」というと、「人差し指」と「家族の人数」の意味で使われ、「食指众多」で「扶養する家族が多く、負担がかかる」という意味になるそうです。
 2012年の文化庁「国語に関する世論調査」で「食指が動く」が調査の対象となり、16歳~19歳の回答者が、辞書的な言い方である「食指が動く」より「食指をそそられる」の方が多く使うと答え、話題になりました。22世紀には「食指がそそられる」のほうが多数派になっているかもしれません。2600年以上前に中国で生まれ、母国では使われなくなりながらも、遠く日本で生きながらえ、新たな形に変化しようとしている、言葉の運命の不思議を感じます。 

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西川芳樹関西大学非常勤講師

投稿者プロフィール

大阪府岸和田市出身。
関西大学文学研究科総合人文学専攻中国文学専修博士課程後期課程所定単位修得退学。
関西大学非常勤講師。
中国古典文学が専門。

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